LUMIX MEETS /BEYOND2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS#5 に参加します。
6. 家族アルバム
旅から帰宅し、唐突に両親の死に近づいた僕は、目の前で起きている事の理不尽さにただ呆然としていた。寝て起きたら夢だった。なんていう落ちはついてないみたいだ。痛くても、悲しくても、酒をあおって酩酊し気絶するように眠っても、時計の針はただ前に進む。
絶望に飲み込まれそうになりながら、僕は目の前のありのままを記録し、今しかない感情を残そうとした。写真を撮る事で自分を死の淵に連れてきたこの出来事に、少しでも抵抗したかった。
2人の遺影が並んでいる祭壇の写真を撮ったとき、両親の自死が作品になる事を確信し、自分は生涯両親について考え続けることになるだろうと思った。
過ぎ去った幸福な日々は、家族が共有する思い出の中にある。そして家族の歴史がつまった家族アルバムは、その幸福が確かにあったものとして証明してくれる。
母の死後、父は家族アルバムの編集をした。1ページにクリアポケットが3つ付いた何処にでもあるアルバム。表紙には父の字で ”思い出” と書いてある。泣きながら、もう帰れない場所の断片を集めた父。旅から帰った僕は、父が自死を前に編集した家族アルバムを見た。それは、母と父の幼少時のモノクロ写真で始まる。出会ったばかりの初々しい2人、結婚式、2人の息子の誕生、みんなが笑顔でうつった写真ばかりを集めた、どこにでもあるような家族アルバムは、まるで父の遺言のように見えた。
「この幸福がもうないのなら、この世界に妻がいないのなら、ここで生きて行く意味はもうないんだ。」と父は言っている。
僕は父が編集した家族アルバムから、これまで経験したことのない衝撃をうけた。父は自死することを決めて、この家族アルバムを作っている。それは妻への愛を綴った手紙のように見えた。死に引き寄せられそうになる僕に生きる力を与えたのは、家族アルバムの中の幸せな家族の記憶だった。
5. 死の淵
1998年11月27日夜。雨が降る中、母は家を出た。
父は夜中の仕事に備えるため、19時~22時頃まで仮眠をとるのが習慣だった。起きてきて家に妻がいないことに気づいた父は近所を探したが見つからない。警察に捜索願いを出し、兄と職場の同僚に助けを求めて、手分けして一晩中近所を探し回った。
明け方、父の携帯電話に警察から電話が入る。区内で中年女性の飛び降り自殺があった。奥さんかもしれないので確認しに来いとのこと。父と兄は警察の遺体安置所へ向かった。2人はどんな気持ちで、もう動かない母に会ったのだろうか。
僕は何をしていたのだろう。母はなぜ自分を殺してしまうほどに孤独になってしまたのか。
妻の死後、父はずっと酒を飲んでいた。糖尿病のために普段は酒を控えていたが、妻の自殺という現実を前に、しらふでいることが出来なかったのだろう。
「このアホ自殺なんかしやがって!」と言って泣きながら妻の棺を蹴っていたそうだ。悔しくて、悔しくて、しょうがない…。そんな父の気持ちが痛いほどに伝わってくる。兄は父が社長を務める家業の運送会社に入社したばかりで、母の葬儀の後、2人は一緒に酒を飲みながらこれから頑張ろうなと励ましあった。
「アホの順平は何やっとんねん。あいつ帰ってきたらお前どついとけ。あいつがおったらお母さんは死なんかった…。お母さんはいっつも順平のけつ付いて回っとったやろ…。」
12月7日そんな会話の後、19時頃に兄は夜中の仕事に備えて仮眠を取るために寝室に入った。父は明日から仕事復帰し、取引先に妻の葬儀の挨拶回りに行くと兄に伝えていた。
22時過ぎ、兄は眠りから覚めてトイレに行こうと寝室を出た。トイレ横の屋上へ向かう階段の暗がりに、何かがあるのが視界に入る。寝ぼけた目を凝らして見ると、父が首を吊っていた。
Picture of My Life トークライブ in 梅田蔦屋書店 9/3(日)14時〜16時
4. 悪い夢
リビングのすみっこで、母がカベの方を向いて床に正座している。
「なんでそんなとこで正座なん。ソファか椅子にすわったらええやん。」
「ここがいいの。落ち着くから…。」
「夜は寝れた? 体は大丈夫?」
「寝てない。頭が重たいの。脳が圧迫されるみたいで不安になる。ごめんネ…私が悪いの。」
洋服が掛けてある2畳ほどの狭い部屋で、包丁をもってしゃがみこむ母。
リビングに母がいないことに気づいた父が母を探している。
母を捕まえた父が怒鳴りつける。「おまえは何してんねん!なんでそんなに弱いんや!俺までおかしなるわ!!!」感情のタガが外れた母は大声をだして泣いている。父を振り切って、包丁を振り回す母。
「なにしてるん!やめろや!」
目をさますと、今自分がいる場所がどこなのか分からなかった。「タイや…、夢か…。」
心配になった僕は2週間ぶりに家に電話をした。しかし、何度コールしても誰も出ない…。
初めての海外は興奮の連続だった。日本語が通じない中、片言の英語で意思表示するのが楽しかった。両親のことや、自分のこれからのこと、わずらわしい事は何も考えなくて済んだ。海辺で1日中本を読んだり、タイの若者達と酒を飲み、適当な英語で朝までバカ騒ぎした。ただ時間とお金を消費していれば良かった。日本を出て1ヶ月、タイ人の仲の良さそうな夫婦と飲んでいて、ふと両親のことを思い出す。「オカン元気かな❔」翌日の昼過ぎに目を覚まし、ふらふらと部屋を出て、街角の公衆電話から自宅に電話した。
「もしもし、順平です。」
「おう、順平か!自分今どこおんねん、章一にかわるから待てよ。」
電話にでたのは父の職場の同僚だった。なんで?
「もしもし、おまえどこおんねん。今すぐ帰ってこい。」
「えっ、なんでやねん。後1ヶ月タイにおる予定やねん。」
「ええから帰ってこい。」
「オカンはどうしてんの?」
「帰ってこい・・・。」
「なんで!?なんかあったん?オヤジは?」
「ええから、すぐに帰ってこい・・・。」
兄の声は震えていた。大変なことが起こったようだ。2人とも死んだか?両親が車で単独事故を起こしている様子が思い浮かんだ。
埃っぽいクラビの町を宿に向かって歩きながら、考えれば考えるほど、2人はもういないような気がした。友人に事情を話してチケットの手配など帰国準備をしてもらった。何も考えられない。何もできない僕を心配した友人がタイからマレーシアまで送ってくれて、1人日本への飛行機に乗った。ただ、両親が生きていてくれることを願って。
3. 逃避旅行
おかん元気ですか?
元気じゃないんやろうな~、暗い顔してんねんやろうな~、と順平は思います。
順平はおかんが心配です。親父もじいちゃんもおばちゃんも兄ちゃんも みんなで心配しています。おかんは今、暗い事や悪い事を考えすぎるようです。今、おかんがすべき事は、いろいろな物事をたのしく、うれしく考える事だと思います。だからと言ってあせらなくても良いのです。人生は長いのです。ゆっくりで良いのです。順平はそう思います。こっちは何不自由なく暮らしております。親父は大変そうです。順平は大変じゃないです。おかんがおらんくて少しさびしいくらいです。じゃあ ゆっくりしてください。 バイバイ
順平 手紙ありがとう
順平の優しい手紙で教えられたり励まされたりしました。
家族皆に心配をかけて申し訳ないと思っています。皆が力を合わせて頑張ってくれている様子が目に浮かびます。貴方が思っている通り私の方は状態は今の所 あまり良いとは言えませんが1日も早く健康になって皆と一緒に暮らしたいと思っています。おじいちゃんも元気なようで何より嬉しい事です。順平もバイトの方大変だけど、体の事を考えてあまりムチャをしないようにネ。
出来たら今のバイトじゃなくきちんと就職してほしいな~と思います。思っていたよりウンと大人になっている順平で私の方が子離れを出来ていないようで本当にゴメンネ。章ちゃんとも仲良くして下さいネ。パパさんのアドバイスも良く聞いてまずは健康第一、自分の体を大切に!まだ色々と書きたい事、おしゃべりしたい事はいっぱいありますが、今は書ききれません。
だんだん寒くなるけれど、風邪等ひかないよう気を付けて下さい。
母より
1998年の秋、49歳の母は更年期障害から鬱病を発症していた。いっときは不眠が続き、頭痛、めまい、不安感に襲われた。包丁をもって狭い部屋に閉じこもった後に、千里山の精神病院に3週間ほど入院した。父は母の病状がよほどショックだったらしく、夜中に酔っぱらって、お前のお母さんはキチガイやった。一生なおらん。と泣いていた。父が泣いているのを見るのは初めてだった。この頃の父はいつもの冷静でカッコイイ父とは違っていた。
「ごめんネ…。」消え入りそうな声で母は言った。
「なんも謝る事ないやんか…。」
病院のベッドの上、足を伸ばして小さく座る母は、今にも泣き出しそうな女の子のように見えた。
「もう帰るわ。また来るし。」
「手紙…,ありがとうね。」
「うん。また書くわな。オカンはゆっくりしてたらええねん。」
「うん…。」
鉄格子のついた扉を開けてもらって病院の外に出ると、日は傾き夏の終わりを告げる秋の虫が鳴いている。さっきより頭が重たい。1人電車にのって家に帰った。
当時21歳の僕は大学を中退してまで臨んだ芸大受験の全てに失敗してぶらぶらしていた。「なんや、俺落とすて、芸大て見る目ないねんな。」芸術の才能があって頭も切れる。何でもできるはずの自分が、ことごとく社会に受け入れられない現実に立ち往生していた。自己評価と現実の距離は相当開いてる。そんな憂さを晴らすために、友人と半年前から東南アジアの旅を計画していた。パチンコ屋での退屈なアルバイトで旅費を貯めてカメラも買った。旅に出ることで、行き詰まった自分の状況が大きく変わるような気がしていた。
10月下旬の深夜、自室で旅の支度をしてた僕は父の足音に気づき、部屋から顔を出して言った。
「明日から誠とタイ行ってくるわ。2ヶ月。おかん大丈夫やんな。」
「ほんまに行くんか・・・。まあ、ようなってきてるし大丈夫やろ。ほなこれ持って行けや。」
「えっ、こんな貰ってええの。ありがとう。」
「気いつけて行ってこい。手紙、ありがとうな。お前のお母さん涙流して喜んどったぞ。」
「そうなんや。うん、わかった。」
そう言って父は寝室への階段を上っていった。父から2万円も貰うのは初めてだった。
「Picture of My Life」を展示させて頂いている,地元大阪の梅田蔦屋書店さんで出版記念のトークライブ&サイン会を行います。9月3日(日)14時〜16時です。
2. 両親
父は1947年に大阪で生まれた。3人兄弟の末っ子で、7歳上の兄と3歳上の姉がいた。小さなころから物を作るのが好きな少年だったそうだ。古い家族アルバムで見た小学生の父は、半ズボンの制服姿で畳に座り、本を手にして恥ずかしそうに笑っている。母は1949年に京都の大江山で生まれた。5人兄弟の末っ子で、兄3人と姉1人。自然に囲まれた環境で育ったせいか、母は大らかでいつもニコニコと笑っていた。
僕が小学生の頃、二人の馴れ初めを聞いたことがある。「ママが駅の売店で店員さんをしてた時にね、パパがお仕事で新聞を持ってきたの。最初はなんとも思ってなかったけど、パパが用もないのにお店の前をウロウロしててね、パパの方からママのこと好きになったんやで」と母は教えてくれた。この時の嬉しそうな母の顔と、僕の中に生まれた暖かな気持ちは、何度も思い返す僕の宝物だ。母には父が自分を迎えに来た王子様のように見えたんだと思う。
両親は1973年に結婚した。この時、父27歳・母23歳。母のお腹の中には兄がいたそうだ。結婚してしばらくは千里山のマンションに住んだあと、吹田に新しくできた団地に引っ越した。近くには大きな公園があり、兄と走りまわって遊んだことを覚えている。僕が小学校に入学する年、父方の祖父母が大阪市内に建てた3階建ての立派な家で同居することになり、祖父母宅に家族4人で引っ越した。
父は結婚を機に絵で食べることを諦め、祖父の経営する運送会社で昼夜を問わずに働いた。深夜は運転手として現場にでて働き、昼間は営業をして、夕方に帰宅する。僕が幼い頃の父はいつも疲れていて近寄りがたい雰囲気だった。絵を描いて母と一緒にいる時の父が好きだった。母は立派な家で住むようになって、忙しそうにしていた。卓球・お料理・生け花。たくさんのお友達に囲まれたお姫様のような母はいつも元気に飛び回っていた。父は妻の笑顔に生きる喜びを貰っていたんだと思う。
両親はよく思春期の僕の前でのろけて見せた。リビングでコーヒーを飲みながら、「お前のお母さんは世界一のべっぴんや」と父が言い。母は「色気のかたまりやで~」と笑って付け加える。僕は仲の良い両親の姿に安心をもらい、いつか2人のようになるんだと思っていた。